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完璧な加藤シゲアキ担になることを諦めた

 

これは、2016年1月10日に、映画ピンクとグレーの公開と他にも諸々でメンタルをぐっちゃぐちゃにやられて公開して、そして半日でしぬほど後悔して引っ込めたブログです。もう世界のほとぼりも冷めたしなんとなくアリかなと思ったのでかなりの粗は目立ちますが上げます。

 

 

 

 

 

2015年、ほぼずっと同じことを鬱々を考えていました。この記事も8月くらいからずっと試行錯誤してお伽話風、ポエム風、自伝風、様々な技法でオブラートに包もうとしたのですが既に2016年の正月休みすら終わってしまい、どれも8割ほど書いたところで筆が止まってしまうことを知ったのでストレートに書こうと思います。不快になられる方も多いとは思いますが、大変自分勝手ながら自衛して頂けることを願います。また、未熟なもので若干攻撃的な文章になってしまうかもしれませんが、その書き方しか知らないだけで実は全く攻撃的な感情は持っておらず誰か、何かを批判・否定している訳ではありませんと言い訳させてください。

 
 
 
はたして私は、作品の作者であるアイドルとどう付き合っていけばいいのでしょうか。
 
考察や分析を楽しむタイプのジャニオタをしていると、しばしばこの問題にぶつかります。私はジャニーズ唯一の小説家でコンスタントに文章作品を発表してくれる加藤シゲアキさんを担当としているので一際多いのだとは思いますが、過去に二宮担であった時も本人作詞・作曲の曲やなにかしらに関して同じ悩みを抱えていたので、これは案外普遍的な議題なのかもしれません。
 
私は、過激な言い方にはなりますが作者と作品はまったく関係せず別物であり、それを同じとみなして作者/作品を考える材料とすることは双方を冒涜していることになるのではないかと思っています。
 
フォロワーさんに私の言いたいことが簡潔に表された概念を教えて頂きました。「作者の死」というそうです。

 
 
 
私は本が好きで、それはそれはものすごく好きで、狭い自室の壁一面を本棚にしてさらに本棚を乱立させ図書館の司書さんには名前と顔を覚えられて何も言わずともお勧めの新刊を教えてもらえるレベルで本が好きなのですが、こちらには「物語は出版された時点で読者のもの」という言葉があります。映画や音楽の世界でも似たような言葉を聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。本や映画、音楽などの世界では日常的に用いられなおかつごく普通に受け入れられている(賛同しない方もいますが多くの場合この考え方の存在は知っていますし共存しています)この考え方がジャニオタの世界では殆ど普及せず受け入れられないことに、文学オタクから来た私は違和感と疑問を持ってしまいます。
 
私は、その現象は「アイドル」という職業の特殊性によるものだと思っています。例えば役者は演技を売り物にします。小説家は自身の文章、歌手はその歌、殆どの表現者はその人が作り出した何かを売り物にしており、評価されるのも作った人ではなく作られた作品です。しかしここで、場合によってその全てをこなしてみせる"アイドル"という職業の商売道具を考えてみると、それは何を隠そうその「人」そのものなのです。その人の性格、思考、失敗に成功、努力、過去、未来。私たちは彼ら・彼女らの魂、人としての全てをまるっと愛しそして、(私たちが無理矢理にもぎ取って買ったつもりになっていることも多いような気はしますが)確かに彼らはそれを売り物としています。それがアイドルという仕事だからです。アイドルが何か素晴らしい作品を作り出したとき、作り出したものではなくそれを作った本人が評価/賞賛の対象になっている現象に心当たりはないでしょうか?「この曲が好き!」ではなく「こんな曲を作る、作れるあなたが好き!」となるわけです。「この曲が好き」の理由が「あなたが作った曲だから」になっていることも多いのではないでしょうか。
以前、どこかで誰かが「自分にとってアイドルファンをすることは自分の中にそのアイドルのレプリカ、偶像を作っていくことだ」というようなことを言われていたのを覚えています。自分が見た読んだ聞いた考えた彼に関する全ての情報を材料に、自分好みで自分勝手で可能な限り精巧な唯一無二の彼をつくる、確かに私たちが普段やっていることは全てこれに合致するような気がします。雑誌の発言、テレビでの僅かな表情の変化、コメント、ライブの笑顔、ファンサの様子、好む音楽、自分が知り得た彼のエピソードを丁寧にマークし深読みとも言える思考をあちこちに巡らせることはもしかしたら、「自分の中にある彼」をどんどん自分にとってのリアルなものに近づけていく作業でもあるのかもしれません。
 
それでは、1番良いレプリカの材料は何なのでしょうか。効率の良さでは、自分の中で噛み砕いて一般化することが必要のない少し真面目めなインタビューなどでしょうか、MYOJOさんはいつもオタクの味方です。しかしアイドルであるという枷や本人の見せたい/見せたくない部分というフィルターのない、もしかしたら本人すら気づいていないかもしれないまっすぐそのままの彼の中身までもをレプリカに搭載したい場合、おそらく材料となるのはある一定の段階までは「彼の、架空の文章作品」になるのではないかと思います。作詞を手がけた楽曲や該当する人や機会は少ないですが小説など、純度100%で綴られた彼の言葉は彼の世界によってのみ作られたもので、深読みするタイプのオタクにとってこれほど噛みごたえのある素材はありません。
 
しかし、ここでひとつ懸案事項が発生します。この場合、彼の作品はファンにとって一体何なのでしょう。作品を文脈ごとに区切って彼自身のエピソードと関連付けたり過去作品との因果関係や共通点、変化を炙り出してまとめるために使うとき(私個人としてはこのようなやり方はとてもナンセンスでそこから読み取れることは一つもないと考えていますが)、彼の作品は単なるレプリカ作りの材料、彼の本質を垣間見た気分になるための道具のひとつに過ぎないものへと化してしまいます。そして当然ながらそこに、初めに書いた「作者の死」は存在し得ません。作品をそのような道具として用いる人にとってその作品は作者ありき、関連付けないどころかもともと無い関連性までもを無理矢理ひねり出して読むしかない参考文献であるからです。そこに誰が書いたのかを意識しない純粋な小説、詞としての評価軸は存在せず、仮に作者を意識せずに読んでみようとしたところで、1度フィルターをかけて文章をみたことがある以上きっと永遠に純粋な読者になることはできないのではないかと思います。
 
私は、加藤シゲアキさんの小説が好きです。加藤シゲアキさんは、普通に、本当にごくごく普通に好きな作家さんのひとりです。彼がアイドルをやっていることを知る前も、知った後も、そしてアイドルの彼を自担と呼ぶようになった後も変わらず好きですし、彼が精緻な筆致で丁寧に紡ぐ、泥くさく懸命かつ繊細で美しい物語への印象も感想も思いも何も変わりません。実は過去に何度か真面目なジャニオタになろうと思い作者を意識して読んでみようとチャレンジしたのですが、本が面白くてせいぜい1ページも覚えていられず結局普通に読んでしまいました。このブログタイトルは加藤シゲアキさんの著作の一節なのですがそれは、そのオタク的な分析をしようと思っても本に入り込んでしまい出来ない自分にコンプレックスを感じていたころのなごりです。だからジャニオタとしての私はそうやって著作からこじつけて遊んでみたい気持ちもあるしそうする方達の気持ちも痛いほど分かります。
 
しかし、文学少女(ただ本が好きなだけなのに自分のことをこう形容するのはおこがましいとは思いますが)の私はこう考えてしまいました。
なぜ、加藤シゲアキの著作は"作者が加藤シゲアキというアイドルである"というだけの理由で作者の死すら許されず、バラバラに解剖されて物語として生きることも出来ないのでしょうか。それは本を、物語を冒涜していることに等しくはないでしょうか。小説はただの文章、単語の連なりではなくそこにもう一つの世界があり、作者の綴った文章はその世界のほんの一部を覗き見ることのできる小さな窓に過ぎません。1度そこに世界が誕生してしまった以上それは作者のものではなく、ただ永遠に物語の向こうに存在し続けるのです。例えその小説にモデルがあったり何かのオマージュだったとしてもそれは関係なく変わりません。
 
  また、あとひとつだけ。これもあくまで個人的に感じたことに過ぎませんがもしかして、NEWS担はそろそろ加藤シゲアキさんが小説家であることを神聖視し、その役に立とうとするのをやめてもいいのではないでしょうか。例えばCDのようにたくさん本を買って布教用と称して配ってみたり、何らかのランキングに貢献しようとしてみたり、妄想や願いに過ぎなくてもなんとか話題になる方法を考えてみたり、過剰に真面目に真剣になろうとしたり、彼について書かれたニュースのPV数を上げようと頑張ってみたり、「作家の彼の言葉を聞きたい」という名目で講演会や舞台挨拶?なんかに必死になってみたり、しなくてもいいのではと思うのです。それは何故なら、そのような行動はアイドルの世界も出版の世界も加藤シゲアキさんのこともバカにしていると思うし、バカにされるもとになるからで、事実加藤シゲアキさんの本において売上の記録は機能していません。わたしは、本の内容に釣り合わない「中学生がすすめるNo.1」というような肩書きがあったりすることによって、元来本が好きな人が手に取るのをやめるところを何度も見ました。不正、といってはなんですが過剰に作者に依存した可能性のある空っぽの肩書き、実績があることで、彼の作品は「これは普通の評価には値しないものだからこんなに必死な肩書きがついているのだ」と判断されてしまうのです。実は世間にある"所詮アイドル"などといった偏見よりもこちらの方が問題だと私は思います。作家の加藤シゲアキやその著作を尊びたいあまりの行動なのだとは思いますが、中身のない肩書きはかえって逆効果なのではないでしょうか。そしてこれは私の主観ではありますが、加藤シゲアキさんの本は、ファンが血眼になって守って"あげ"なければならないほど弱いものでも稚拙なものでもありません。少なくとも作者が誰かも知らずに読んだ文学少女の私は彼の作品に十分に魅了されました。何様だという感ですが恐れずに言うと、純粋に文学作品としてそこそこ優秀なものだと思っています。そもそも未熟な作品を作者の肩書きだけで出版するほど日本の出版業界は腐っていないと、学生の私は夢を持ってもいいのだと信じています。
 
ただ、これは単純に本が好きで好きでたまらない女の子の独り言、そしてアイドル加藤シゲアキのファンのエゴに過ぎないことは痛いほど理解しています。
弁解するようではありますが、NEWSが好きでアイドルの加藤シゲアキが好きな私は加藤さんに文学賞を取ってほしいという話を聞いても「確かにそうだなあ、そうなってくれたら嬉しいなあ」と感じました。分かっています、加藤シゲアキさんがアイドルの小説家として賞を取ったりたくさんの出版社で本を出したりしたら、それはそれはNEWSの売りになります。話題になります。露出が増えます。ファンも増えるに違いありません。きっとそれは、NEWSというグループが勢いに乗るための特大ブースターとなることでしょう。…憶測ではありますが、加藤シゲアキさんが小説を書く理由はそのためも大きいのでしょうし、己の書く小説がNEWSのためになればそれほど嬉しいことはないのではないでしょうか。……ただしかし、メディアミックスや考察、加藤さんのラジオに来るメール、あともし賞をとったとしたらその時や例えば何かのランキングに載っただとか、そういう時に私があまりいい顔をしていなくても、甘ったれているのは分かっていますがよければそっと見逃してくれたら嬉しいなと思っています。私は文学少女の自分を殺したくはありません。
 
 
最後に少しだけ、所謂メディアミックスへの私のスタンスを整理しなければなりません。何故ならついに、1月9日が来てしまったからです。
さて先ほど、小説は無限に広がる物語世界のほんの端っこを覗き見るだけの小さな窓だと言いました。私は読者たち、そして作者の間で共有されるのはその小さな窓から見える僅かな景色だけなので、もちろん人によってそこに広がる世界は全く違うものだと考えています。でも、それぞれが違うものを見ていますがそれは全て正解で間違いなどなく、その人にとってはそれが正解なのです。同じ本を読んだ人と語り合って互いに見えている世界の違いをみつけるのは楽しい遊びですがあくまでもただの遊びに過ぎません。そしてきっと物語がメディアミックスされた時に物議が起きるのはそのためなのではないではないかと考えます。自分とは違う世界を全員にとっての正解として提示されれば、拒否反応が起きるのは当たり前です。恐らく別の物語、別の世界だと捉えられれば楽しめるのでしょうが、私はそれが苦手なので好きな本の映像化はめったに見ないし漫画化されても読まないし、好きな漫画や映画やドラマがメディアミックスされたとしても殆どの場合は無かったことにしてしまいます。映像化を見てから原作を読むこともとても苦手です。
そして今日、映画「ピンクとグレー」が公開されました。主演は中島裕翔さん。あぁ、困った。私は中島裕翔さんが好きなのです。彼が主演する映画ならば見たいのです、それがどんなに好きな本が原作であっても。実はこれほど好きな本の映像化にこれほど好きな人が出るという経験が無いので、この天秤は1秒ごとにフラフラゆらゆらとして定まりません。しかしこの文章を書いている今現在は中島裕翔さんを取る方に傾いているのでそうしたいと思っています。もしかしたら見ないかもしれませんが、それはその時です。